三崎魚市場の歴史。
【大正10年〜】三崎魚市場、三崎港にできる!!
場所は、現在の三崎港の「うらり産直センター」の手前です。この屋根すらない野天の市場から歴史は始ります!
漁船が浜につくと、釣った魚を砂や板の上に並べます。魚は「せり人」による「せり」が行われ、魚商(仲買人)さん達がそれを「せり落とす」のです。(「せり」とは・・・せり人が「1,000円!1010円!・・・」と言うように、魚の値段を少しづつ吊り上げて言っていきます。魚商さんは、自分の欲しい値段の時に買う合図をします。一番高い値段の時に買う合図をした人が、その値段で魚を変えるのです。)
★この頃は「生まぐろ」です!
漁船は八丈島辺りまで出掛け、2〜3日漁をします。獲れたまぐろは氷漬けにして運んで来ました。
【昭和5年〜】市場最初の建物ができる!
三崎港の浜を埋め立て、漁船が着く岸壁と市場の建物を造りました。これが最初の建物です。
「入札制度」始まる!!
市場が出来上がると、今までの「せり」ではなく、より公正な「入札」制になりました。(「入札」とは・・・仲買人さんが自分の欲しい魚の値段を「札」に書きます。一番高い値段を書いた人が、その値段で魚を買うことができる制度です。)
「太平洋戦争勃発!」
三崎は日本一のまぐろ漁港になりました!ところがその矢先に戦争が始まってしまいます。
漁師さんや仲買人さんは兵隊に取られ、漁船も軍の偵察艦にされたりで、港は活気を失いました。(それでも偵察中に漁をしていたので、敵の魚雷の的になりました)
戦後になるとマッカサー司令官の命令で、漁船をどんどん作るようになります。まぐろは戦争中ほとんど獲っていなかったので、数が増え豊漁でした。(この頃は配給制のため、自由な売り買いはできませんでした)
★冷凍まぐろを解かして売る!(冷凍まぐろの登場)
昭和30年頃になると、冷凍庫を持った「冷凍船」が出来て、冷凍まぐろが登場します!冷凍船により、まぐろを獲りに行く漁場は、三崎港近隣から、遠い外国へと延びて行きます。
冷凍まぐろと言っても、この頃は-20℃位なので、解かしてから入札していました。解かし方も色々で、まぐろを岸壁から海に吊るしたり、ホースで水をかけたりしてました。
【昭和43年〜】巨大市場できる!
今までの建物を壊して、約2倍の大きさの市場を建てました!
市場の中に、当時最新技術の-35℃超低温冷蔵庫(800トン貯蔵)、全自動製氷システム付貯氷施設(100トン貯蔵)ができました。
この市場ができた頃は、まだ冷凍まぐろを完全に解かしていました。次第に冷凍技術が良くなるにつれ、半解凍したりしながら、昭和45年頃には解かさずに冷凍のまま入札するようになったのです。
また、一部のまぐろ(昭和50年頃には全てのまぐろ)の尻尾を切って解かし、そのまぐろの肉質や脂ののり具合をチャックし、入札するようになりました。それが、現在も三崎魚市場の特徴にもなっております。
★運搬船の来襲!!
漁船の高性能化により、世界中のあらゆる海でまぐろが獲られるようになりました。
日本以外の国がまぐろ漁を始めるようになると、運搬船を使って、母船からピストン輸送し、日本にまぐろを運んで来ました。これが、日本のまぐろ船の衰退を招きました。
【平成6年〜】最新鋭魚市場の完成!
三崎魚市場は、新しい時代に向け、更なる発展をするために、旧市場から場所を移動し、新たな市場の建設をしました。
市場の一画には、地上7階の管理棟、-60℃超低温冷蔵庫(5406トン貯蔵)、製貯氷施設(200トン貯蔵)を併設しました。
さらに、現市場の30倍の広さ(4万2千坪)の「新港」を埋め立て完成しました。また、旧市場跡地に「フィッシャリーナウォーフうらり」(産直店、レクリエーション施設、まぐろ水揚げ場)をも造り、新たな観光スポットとして、人気です。
【平成13年〜】旧魚市場跡地に産直センター「うらり(三崎フィッシャリーナウォーフ)」完成!!
地域活性化と水産振興を目的として平成13年(2001年)7月にオープンしました。
(株)三浦海業公社が運営し、マグロをはじめ旬の魚介類や野菜などを販売する「産直センター」、多目的イベントスペースの「うみぎょうプレイス、研修・展示室」があります。
また、コンサートや演劇等多目的に利用できる市民ホール「シーサイドホール」が併設されています。
★「三崎のまぐろ」は、現在-60℃にて保管されております。この温度帯ですと、まぐろの肉の細胞が壊れません。獲れたての鮮度で、加工、流通し、皆様の食卓にあがるよう努力しております。